東京土建品川支部

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平和特集 語り継ぐ戦争体験

敵の装備に恐れ、驚嘆

赤道直下はるか南方のティモール島で

自動小銃と竹やり

中延分会 菅野 正二郎

 昭和19年の12月末対岸のオーストラリアの大群が攻めてきたとの報がティモール島の東のはずれに駐留しておりました少数の歩兵隊より連絡が入り、急ぎ我が部隊戦車隊の出動かと勇み立ちましたが、残念ながら燃料(軽油)がなくて、戦車は動きません。ガソリンでは動かない。
 トラックで銃を手に荷台に20名ほどで、その中にO君がおりました。数日後無事に任務を終えて帰りつくなり、「菅野、タマゲタよ」と。敵はたったの二人で、「俺たちの半分ほどの長さの銃で腰にあてがい、バリバリと、あれは機関銃の乱射だ」
 ちなみにわが軍の軽機関銃でも二人がかりで地に据えて撃つのにあんなに軽々と撃てやしない。うっかり出ようものなら身体中、ハチの巣だよとこわがっておりました。そして、ボートで沖へ沖へとそのボートの早いこと、早いこと、瞬く間に沖へありや、こちらの様子を見に来たのだなあと当時を話してくれました。さっきは無事で良かったなあと。
 それを聞いておりました上級の兵が自動小銃ではないか。わが軍にはないが、ヨーロッパ戦線では、各国が使っているよと説明してくれました。
 自動小銃か。俺たちの銃はよっこらせいと狙いを定めて五連発でも五秒はかかるなあ。当たらないとすぐにビンタだものなあと思いました。

行きは歓呼の声に
 送られて
かへりはさみしき
 セレナーデ

  帰還を詠んだ句

変わり果てた故郷の姿

 昭和21年の夏、今頃でした。なつかしの郡山駅前は、小僧(大工)に行く前は弟たちのお守りをしながら、良く遊んだものでした。ところが、一面見渡す限りの焼野原。駅東側には連なって軍需工場があり、それに落とされた爆弾や焼夷弾の被害の延長で旅館、商店や遊び場だった遊園地公園、はるか彼方まで焼野原になっていました。行く時とは大違いと呆然と見とれていると、「兄ちゃん、お帰りなさい」と妹や弟、そして父がどこから聞きつけたのか迎えに来ました。避難先の住所を知らないと思い、今の列車で帰ると聞きつけて迎えに来たとのことでした。
 隣が銭湯で小さいころより銭湯育ちの私には現地のドラム缶の風呂は苦手で、しばらくぶりのタイル張りの大浴槽は快適で汗を流し温まりまして、母の手作りのごちそうに大満足でした。母は料理が得意で勤めていたこともありました。白いゴハンですが、大根やイモが入っていましたが、この町場で食べ物(米)がないのによく仕入れてきたなと思いながらとてもおいしくいただきました。
 翌朝、目を覚ますと縁側にかけたタオルが朝日にあたり、よく見ると2mばかりの竹の棒の片方の先がとがっておりました。業者が斜めに切ってそのまま売りやがったな、どこの業者か、いくら物不足でも切りっぱなしでは失礼だと会ったら言ってやろうと思っていました。
 母がそばに来て、これは「B29のアメリカさんが空から降りてきた時にやっつける竹やりなのだよ。毎日のように町会で練習をしたのだよ。兵隊さんも来て教えてくれたよ」と話してくれ、「えっ、竹やり?」と驚いたのはこちらで、それで「アメリカさんは来たの?」と問うと「ぜんぜん高射砲の弾が届かないのよ。高い上空を飛んでいたがずいぶん大きく見えたよ。B29の飛行機は大きいね」と戦争が終わって捨てるのが惜しいとよく拭いてタオル掛けにしたとのことでした。「まずは、争いなどしなくてよくなって良かったよ」と母の声が今でも忘れられません。

八丈島震洋特別攻撃隊記念碑

 八丈八景のひとつに数えられている名古の展望台に、この記念碑はある。この地にはかつて小型水上特攻艇「震洋」の基地があった。
戦後70年の現在も、祖国に殉じた数多の兵士を彷彿として偲ばせる平和の碑である。

 

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取材報告 東京大空襲、戦災資料センター

~体験者の話を聞く~

旗中分会 津田 順子

 「東京大空襲・戦災資料センター」は江東区北砂1丁目にあります。昭和20年3月10日の大空襲を含め100回以上に及ぶ空襲・戦災の記録を文献や物品、写真、絵画等さまざまな形で展示してあります。この地は戦禍のもっとも大きかった所です。民間募金と篤志家の方からの土地の無償提供により、2002年3月9日に完成しました。私が行ったときにはまず当時の記録映像を見せていただきました。3月10日の0時7分に161機もの爆撃機による空襲が始まったのですが、空襲警報が鳴ったのは0時15分…その時にはすでにあちらこちらで大火災が起きていました。なぜ警報が遅くなったのか…夜中だったからという理由でした。そして0時半には荒川と隅田川の間の地区のほとんどが火に包まれていました。川の中は熱さから逃げてきて亡くなった人々の遺体の山、道の上は焼け焦げて炭のように真っ黒になった人々の遺体が無数に倒れている…むごい光景が続きます。この日一日で10万人以上の尊い命が失われたそうです。
 映像を見た後は、体験者の赤沢さんが当時の話をしてくれました。赤沢さんは当時14歳、ご家族と必死に逃げたそうですお父さんが風下ではなくナナメに風上に向かって逃げたおかげで逃げ延びることができたこと、雷門のほうから火が波のように隅田川を渡って桜の木を焼き尽くしたこと、黒こげになった遺体を見て最初は人だと気がつかなかったこと、そして本当はこのような話はしたくなくて、親とも話さなかったけれど、自分が元気なうちに若い人たちに伝えなければと思い、今はこうして話をしているとのことでした。
 映像を見、赤沢さんの話を聞いて、その後展示を見たときに、ひとつの写真の前で思わず涙が出てしまいました。それは母子の遺体の写真で、2人とも黒焦げなんですが、母親の背中だけ白いのです。それは子供を背負っていたから…。私は戦争を知らない世代ですが、改めて戦争の悲惨さむごさを感じました。

 

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集束焼夷弾

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民間人が多数犠牲になった

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