東京土建品川支部

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語り継ぐ戦争体験

~あの戦争を後世に伝えたい~

恐ろしかった焼夷弾

脳裏から離れない艦砲射撃

旗中分会 臼庭 淳夫

 私は北茨城の磯原町で生まれ、13歳の時に恐ろしい戦争体験をしました。あれから早いもので75年の歳月が流れ、壊れかけた走馬灯のように蘇る思いです。
 昭和19年の12月頃だったと思う。夜の8時頃、縁側で隣町が焼夷弾で爆撃されているのを見上げていました。
 あっという間の出来事だった。B29特有の爆音が聞こえたと思ったら、焼夷弾が雨あられのように、我が家の周りに投下され、びっくりして素足のまま外に飛び出した。
 運悪く炸裂した焼夷弾の破片を素足で踏んでしまい、裂傷の大ケガを負ってしまった。母親に背負われ病院に向かったこと、数人のケガ人がいたことを、今でもはっきりと思い出す。そして、今でも残っている足の傷跡を見るたび、恐ろしかった戦争体験が蘇える。
 また、太平洋上からの日立の軍需工場を狙った艦砲射撃の地響きと轟音の恐怖は、今でも脳裏から離れない。日本軍の飛行機は1機も現れずに、軍需工場はなすすべなく崩れ落ちたと聞いた。自分たちは裏山の穴蔵に逃げ込み難を逃れたが、生きた心地がしなかった。日本の敗戦が近いことを、幼心に悟った。その翌年の8月15日、玉音放送が流れ、終戦となった。

 

菅野さんの意思を継いで

 語り継ぐ戦争体験を書く事にあたり、昨年6月、93歳で逝去された中延分会の菅野正二郎さんが寄稿した数々の戦争体験が思い出された。菅野さんの意思を継いで、2度と悲惨な戦争を繰り返してはいけない。命ある限り、この戦争を後世に伝えて行かなければいけない。そして、改憲を絶対に許してはいけない。

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焼夷弾が投下される様子

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在りし日の菅野正二郎さん

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足の傷跡を見るたびに、戦争体験が蘇える

 

いっぷく

駄菓子への郷愁

小山分会 佐藤 健

 町の「駄菓子屋さん」は絶滅危惧にあるが、駄菓子自体はスーパーや百均店などで今もたまに目にすることができる。
 老舗の「梅ジャム」は昨年姿を消したそうだが、橙色の小さな丸いガムや煙草型の砂糖菓子、本当にヨーグルト?舌を派手に染めるスモモ、凍らせると抜群に旨いアンズ棒(今は炭酸で割った焼酎のマドラーとして使う)等々懐かしいラインナップが並ぶ。アラ還の私も小銭を握りしめ近所の文房具屋兼駄菓子屋に足繁く通った少年時代を思い出す。
 欲深い私が特に好きだったのは「クジ付」の菓子だ。大人になってから買うクジとは違って結構当たるのが嬉しかった。
 特に夏は、棒に「当たり」と焼印のあるアイス類がたまらなく好きだった。食欲とギャンブル欲を両方満たせる。「当たり」で得たアイスで再び当たったりすると「僕は世界一幸せなんじゃないか」などと感じたこともあった(腹を壊すだけだったが)。
 折角の「クジ」を楽しむ為に、すぐに「当否」がわかってしまわないように、融け落ちる心配をしながら、わざとゆっくり食べたり、薄くなったアイスから透けて棒が見えてしまわないように明後日の方向を見ながら食べたりなどもした。しょーもない事に多くの時間と労力をかけられる平和な少年時代だった。
 あれから半世紀、そろそろ自分の身体も薄くなってきて「芯棒」が透けて見えてくるかもしれない。私の芯棒には「当たり」と書かれているだろうか?無いな。わざわざ「ハズレ」と書かれていなきゃいいか。

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懐かしの梅ジャム

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あんず棒

 

 

ぶらり品川 その(163)

品川の施設

武蔵小山緑道公園

中延分会 村山 浩幸

 東急目黒線の線路跡地に緑道公園がある。

 不動前緑道、武蔵小山緑道、西小山緑道と、駅をはさんで緑道が続いている。
 ビオトープやベンチがあり、四季折々の花が咲く。車輌やバイクなどは通行できず、小さなお子さんや、年配の方が安心して歩ける。
 犬の散歩、保育園の散歩、ウォーキングをする人など、ゆっくりのんびり利用している。
 冬には日なたぼっこをする人も見受けられ、夕方には、買物帰りの人、帰路を急ぐ人のように、生活の歩道としても行き交う人が多い。
 遊具は少ないので公園のように遊ぶことはできないが、ゴミが散乱していることもなく、気持ち良く歩ける場所である。
 地元の町会の催しで使用されることもあり、地元の人達には、すっかり馴染みになっている。
 ぶらぶらと歩くにはもってこいの緑道である。

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ビオトープ、いやされます

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目黒線電車型ベンチ

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